【四季折々】鏡餅と日本の餅文化【しげよし】

2018/01/14

 
あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。お正月につい、手がのびてしまうのは「お餅」ですね。お正月は鏡餅を飾りますし、松の内が明けると「鏡開き」もいたします。今回は、お正月とお餅についてお話をさせていただきます
 
■もともとお餅は「ハレ」の日の食べ物でした
 
もともと、お正月はお盆と同じ意味合いでした。すなわち、ご先祖様(年神様)が家に帰られるので一緒に過ごし、お供えした食事を一緒にいただくものだったのです。そして、お正月にお餅を食べるのは、「お米が採れたのは、ご先祖様のおかげです」と感謝する「収穫祭」の意味合いがありました。昔は、ご先祖様への感謝を込めて、新米をついて鏡餅やお雑煮用の小餅を作っていたのです。今でも、年末やお正月に「お餅つき」を町内会行事としてやる地域があるのは、「収穫祭」の名残とのことです。
 
また、民俗学者の柳田國男先生によりますと、日本にはもともと「ハレとケ」という概念がありました。ケ(褻)は日常、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」です。そして、ハレの日である「お正月」には晴れ着を着て、「臼でひいてつく」といった手間ひまがかかったお餅やお酒をご先祖様にお供えした後に食べたり、飲んだりすることができたのです。餅は長く延びて切れないことから、長寿を願う意味も含まれていました。
 
■鏡餅は年神様へのお供え物
 
そして、平安時代の頃には、年神様をおもてなしするものとしてお正月に鏡餅が飾られるようになりました。重ねられたお餅の上には、柑橘類の橙(ダイダイ)を載せます。橙は「代々」とも書き、毎冬に色づいた実が何年も落ちないので長寿の家を象徴しました。炭や米俵などを周囲に飾るのは、燃料や食料など生活の必需品に困らないようにという願いが込められています。
鏡餅が丸い理由には、
1. 三種の神器のひとつである「銅鏡」が丸いから
2. 心臓の形をあらわしている
3. 人間関係や家庭が丸く円満でありますようにとの願いが込められている
など、諸説あります。
お正月に鏡餅やイノシシの肉など、かみ応えのあるものを食べて長寿を願ったといわれる「歯固めの儀」が行われるようになったのも平安時代といわれています。
 
■お正月にお雑煮が食べられるようになったのはなぜ?
 
お正月にお雑煮が食べられるようになった理由にも、諸説あります。ひとつは、鏡餅を神棚から下ろした後、煮込んだ料理がお雑煮の由来とする説です。
 
もうひとつは、室町時代、位の高い人を迎える宴席や上流階級の婚礼のお色直しで出す格式ある酒肴が発祥だったという説です。この酒肴は、お餅のほか、熨斗アワビや干しナマコ、結び昆布など縁起物の具が入った汁物だったそうです。そして、この酒肴に必ず入っていたのが「丸餅」。「家庭が円満に、円くおさまりますように」との願いが込められていたといわれています。味付けは、唐味噌の濃い煮汁を麻袋に入れてこし、そのしずくをためた「垂れみそ」でした。いわば「味噌のすまし仕立て」だったのですね。
 
ほどなく、この酒肴は京都の公家にも広まり、貴人たちが客をもてなす料理となりました。京都の吉田神社の神職、鈴鹿家の日記には、1364年に元旦を雑煮で祝った記録があるとのことです。庶民に伝わったのは、江戸時代の中頃といわれています。
 
■西日本は丸餅、東日本は角餅の理由
 
江戸時代に雑煮が伝わった頃には、すでに餅の形に東西の違いがありました。室町時代の「めでたい日の酒肴」が起源であった京都では、お餅は丸餅でした。そこで、西日本では、「お雑煮は丸餅」として伝わっていくこととなりました。江戸時代前期の儒医・黒川道祐は、1685年に江戸前期の京都を中心とする年中行事を解説した「日次記事(ひなみきじ)」を記しました。そこには、「京都では貴賤を問わず元旦に雑煮を食べる」との記述があります。
 
一方、新興都市で長屋も多く、合理性を尊ぶ武家の町だった江戸には、道具を持ち歩き、餅をついて回る賃搗き餅屋(ちんづきもちや)が登場していました。いわば、お餅のデリバリーサービスですね。賃搗き餅屋ではついたお餅を丸める手間を省くため、平たく伸ばす「のし餅」を売るようになりました。そのうち、のし餅を包丁で切って1個単位で売るようになったことから、お餅の形が四角になりました。
 
次回は、日本のお雑煮文化についてもう少し掘り下げてお話をさせていただきます。